火  冠

 


渇きつつ水を恐るる狼のごとく耳欹てし思春期

 

吐きし血のにはたずみそを影として歩みいだせばきさらぎの月

 

硝子屑さらに微塵に砕きつつこの遊星の末をわらへり

 

潔き調を欲れど淡青の月の光に眩むたましひ

 

杉群を素棧鳴のごと駆抜けし青年の髪風を湛へむ

 

初夏は未明を嘉すますらをの瞼かすかに晩霜を置き

 

雪白の雲をつらぬく杜若むしろわが魂を貶しむ

 

青嵐かすかにゆがむ唇の端壮年の兆しと思へ

 

陽にかざす楓若葉の裂目より前の世のわが歌声響く

 

憎しみの器に満つる歌あらばすなはち塩のごとく黙さむ

 

東の空に彗星しろがねの鬣と賞づ星の心を

 

楓若葉に火の零るさまを見つめつつあはれ心の淵さし覗く

 

しろがねの地に緑金の線走る魚ひつさげて友を訪はむか

 

碧瑠璃の焔となりて飛ぶ鳥を詩魂と顕ふやみ難きかも

 

仏焔包縦に引き裂く遊びにも倦めり齢もすでに忘れし

 

ぬばたまの夜の海芋に煙草火を頒かちつつわが存念を吐く

 

実をなさぬ花いさぎよき六月にわが蒼白の影を重ねつ

 

くれなゐの友誼もすでに廃るると慎みて聴く百合の木の歌

 

シャワ-ぬばたまの咽喉をつらぬけり友の名を呼ばはむとしたるに

 

夏曇と言にいだすは癒えがたき病を得たる徴ならむ

 

驟雨過ぎて未生以前のみづからにすれちがひたり朝鮮朝顔

 

夏真昼はりを横切る蒼白の影ありきわがにがき過去

 

われと言ふわれに最も遠き身に遺言のごと蒼き空ある

 

雲に入り再びいづる一瞬を陽よ研がれつつわれにまむかへ

 

辻辻に蛍惑星の札貼りてすなはち待たむ夏の終りを

 

あやまちて生れしに非ず叛意あるゆゑ藍色の檻にわれ在り

 

秋の眼を脈うつ星と思ふまで魂猛りたつこともなかりき

 

革命と叛乱早も露の夜の友と食ひたる畸形陽根属

 

長き夜梨を七つに切り揃へしばしピアノの鳴りいづる待つ

 

秋茜蜻蛉・紅葉・夕映わが胸の血と交らひて淵をなすべし

 

秋草の種播かざりし咎により今日火刑台上にあるわれ

 

雲の淵鬱金にくづるかつてわが胸処を過ぎしものの裔なれ

 

選ばばわれも硫黄なるべし寂として在る秋天を美しと思へど

 

「鰡一閃未明の海に見失ふ友の心」と書き止めたり

 

頚動脈に剃刀あてて血中の藍の濃度をはからむとせり

 

吾亦紅模糊たる記憶フイルムにはただ緑色の言葉散るのみ

 

木犀に油を注ぎマッチ擦れり束の間兄の行方偲ばゆ

 

ああ牡牛地に弊さるるものの瞳にたまゆら海の色映りけむ

 

夕映の空のそびらの凛凛しさを妬みて黒き葡萄投げたり

 

風に乱るる枇杷の葉群の彼方より月よわがたましひをつらぬけ

 

若者の髪長ければ病む星を繋ぎて遠き宙に放て

 

撃つべしと撃つべしと言ふ声凍てて星よりわれの胸に届かむ

 

藍色の襤褸を風にひるがへしますらをは氷上を奔れり

 

独り醒めてリュウト聴かむか如月の野に革命の声満つるとも

 

凝血の寒の椿に過ぎざれど立ち去り難しことに未明は

火    冠

荒淫の後あふぎたる有明の月たとふれば天の聖痕

 

わが宿の泰山木の花影に憑りたまへるは如何なる神ぞ

 

新しき妻を迎ふと門柱に鉄線花をからませし父かな

 

阿修羅の吐息のごとくゆるやかに開きたり白妙の牡丹は

 

半夏生肩に咲かせて歩めるはソドムを焚きしものの裔なれ

 

百合花紋すなはちわれの背後より墓興に夏の光射すなり

 

シャロンの百合は蜜もたざりきイエスてふ蘂遣せし神のやさしさ

 

わが心述べむとするに舌端ははやくも塩の柱となれり

 

真珠色の光を宿す母の卵拾へり礫もて砕かむか

 

わが額にたまゆら触るる花石榴神の息吹と思ふあやふし

 

フィオレンツア華麗なる名を戴けばあはれ葬花は街にあふるる

 

まさびしき戒めは「モーセノゴトクミダリニ獅子吼スルコトナカレ」

 

翠眼の偽哲学者うるはしき声もて神の最期を唱ふ

 

水瓶を毀てりさらば天心にあぎとふ妻の姿浮かばむ

 

迂闊にもニーチェ忌忘れゐたりけり髪のごと世を蔽へる笑劇

 

言葉こそ男の火冠紺青の空にかかげむ時至るべし

 

苦蓬酒壜の底ひに風たちて非在の刻刻を侵すなり

 

青空に葡萄の種を吐きゐしがすべて神話とならざるあはれ

 

天に羊曇地には陽鳥その間に空の空なるもの満ちてをり

 

わが前に坐す闖入者凛としてうつろふ星を吟遊と呼ぶ

 

ソドムのごとく炎えあがらむか胸中に銀の霜零りつつあれば

 

神あるゆゑに憎しみあふ夕青き葡萄園の哄笑

 

碧落に火を放ちたる若者の横顔は使徒ヨハネのごとし

 

桔梗のかく盛んなるむらさきに肺腑を染めて歩みいだす

 

曼珠沙華たばねて母を打ちにけり怒りはくれなゐにあらざれど

 

縄跳びの円環思弁ふり捨ててにはかに影となりし少年

 

癇癖のイエスのごとき美空より降り来るラピスズリの破片

 

訶梨帝母の美しき歯にみづからをl投げて悔いざる子等もありけむ

 

「吾子よ。ひとみに映るは父の影なりや。」「否!雁来紅の萎れたる頚。」

 

神弱る証なりけむ須磨の浦ゆ黄葉ただよふさまを見てをり

 

熱き乳吹けばたちまち唇を縦横無尽に罅走るなり

 

剄きことイエスのほほひげに似たる刷子もてわが牙みがくかな

 

額より吹きいづる汗薄氷のごとし男に愛告げしかば

 

天狼の火を燭台に移したり主のまなざしを遮らむとて

 

一月の夜の大路にひるがへる「紅旗」てふ言の葉こそあはれ

 

心こそ躓きの石海鼠腸の鈍き光を微塵に刻む

 

しらぬひ筑紫の国に父の香の冬橘を剖きしゆふぐれ

 

水上をはや走り去る人人に擲てり雪白の山茶花

 

髯剃ればたちまち冴ゆる稜線を死海へ急ぐたましひ一つ

 

彼方より父を呼ぶ声須輸にして水面に薄氷を張らしむ

 

銀漢を越えておもむくゲッセマネ弟はかの地にて人売る

 

星はすべて地に墜ちたりと櫓より呼ばはる吾子供の声涼しけれ

 

処女子に「イエスのごとき寝姿」とかなしまれつつ冬も終らむ

 

無花果は樹上に腐る青年の喘ぎは時を越えて鮮し

 

晩餐の椅子一脚を購へりあへて不在を確かめむとて

 

水芹は口に甘かれ会はざりしことも出会ひと思ふ木曜

 

神無月水無月さはれ花菜月磔刑図光背の鮮黄

 

かつて墓穴のごとき瞳をもつユダに魅かれてよみがえりたるイエス

 

ぬばたまの闇さへわれにまぶしきを 知らずイエスの復活の後

 

生ける男の唱歌劈頭「太陽ハ今鈍痛ノゴトク昇レリ」

碧 瑠 璃

冥界の花鋏もて断ちきるはあかねさす言の葉の動脈

 

目を奪ふ馬酔木の若芽たまゆらを汝がたましひもかぎろふごとし

 

鬱勃と桜咲き初む騒鳴の世を斜交に突つ立てる父

 

あかねさす吾子の寝顔にぬばたまの夭折の翳しばしただよふ

 

革命家の後を思へば杜若垂直にして天に届かず

 

泰山木の花咲くころか天降りくる無伴奏パルテイ-タ一番

 

父は子の耳に時計を押しあてぬほほゑみはわが死期を知るゆゑ

 

玉虫を吾子に与へきたまきはる命をやまと歌にたぐへて

 

父をとりかへばや物語読みて啖へり極彩の黴のパン

 

憂愁の見者と言はむそそりたつ泰山木の雪白の炬火

 

夏至過ぎてなほ存ふる父よその影こそ空を流れゆく水

 

韻文は殷殷として鳴神のそよ胸を過ぎ帰らざる鳥

 

みどり児に水注ぎたる若き父もとより一人の神に与せず

 

まむかへる汝が碧瑠璃のひとみよりうろくづ一つ生るるごとし

 

癒え難きたましひならむ陽を追ひて歩みいでしが還らざりけり

 

父と言ふ濡衣あたら空蝉のごときを纏ひ立ちつくすかな

 

川べりに白き夾竹桃は炎えわが妻は子を曳きて佇む

 

炎昼不意にかげりてぬばたまの黒髪縦に疾駆する見ゆ

 

漆黒の傘が創れる蒼白の傷向日葵の圓を蔽へり

 

目礼を返したるのみ新涼の街中に亡き父と逅へども

 

紫苑は死よりいでたる花群のむせびつつ蘂なせる山河

 

あへて世は秋に背けりことごとく羽あるものを土におとしめ

 

曼珠沙華空ただよはば光背にふさはしからむ星の畢りの

 

われかくのごとく聴きたり「碧瑠璃の火を焚く鳥を剖くべからず」と

 

曼珠沙華花の熨斗を東の空にかかげてひた走るなり

 

乳兄弟桔梗のごときほほゑみも風に散るてふはるかなるかな

 

さ緑の唐辛子食む一瞬を父の殴打のごとき烈風

 

夜の秋の空に聞ゆるあらぬ世へ漕ぎ出す船のその櫂の音

 

空は哀傷歌のごとく晴れぬるをな渡りそ雁といへども

 

美童のごとき夕映筑紫野を愕然としてわれは横切る

 

歌声は西行なれやきれぎれに「露は炎をふふみそめたり」

 

澄みはてし水面に罅を奔らしめ鵙哭けり天外の矜持を

 

たむくべき歌知らざれば一輪の野菊柩の中に納めむ

 

みづからを彩るごとく茜さす大空をわが嬬と呼ばむ

 

真水もて滌ぐ海鼠の手ざはりに刹那思へり孔子の旅

 

鷺の声虚空を乱す 言の葉に繋がるもまた羞にあらずや

 

冬の虹掬へばあはれてのひらの荒野を離る消防車見ゆ

 

薄氷とならざる水をあまたたび汲みて葬儀の花に注げり

 

朔風に真向かひて飛ぶ鴉あり声届かざることのすがしさ

 

熟睡のさなかに妻は歌歌ひわが肋骨の弦共になる

 

こらへかね吐きいだしたる言の葉に雨らうかんのごとくしたたる

 

聖六陵。はりにきらめきわが失楽はいづこよりわれを窺ふ

 

神の贄たらざりし父の肖像に奔りけり大寒の罅割れ

 

まこと歌は朗朗たる悲しみに満ちて立つべし寒暁に

 

「牡蠣のごとく眠る慣ひのイエス」その一行に降り注ぐ月光

はなびら

星の名は苦蓬そを額に受け踏みいだすかな時の薄氷

 

薄氷となりゆく父をうすわらひしつつ眺めて楽しまぬかも

 

汝おほいに姦淫すべし然る後福音のごとき父を愛せよ

 

現はるかに夢を超えたり一月の粟津にて会う一人の武者

 

夜の街に老いたる楽士一人ゐてピアノ弾くてふ羨しきかなや

 

妻と子の寝息を聞きぬ朔北を吹く風もげにかくやあるらむ

 

ことごとく氷の柱となる夢を見き夢なれば微笑みてをり

 

喘鳴は一瞬に絶ゆ連雀と言ふ謚を父に示せば

 

うたた寝のわがみどり児の喉笛にかすかに見ゆる一対の鰓

 

欠落ありてこその豊穣かく思ふ夢のうつつに八重桜散る

 

父逝けりされどふたたびわがうちに宿る気配か風の苧環

 

弟の怖るる季はめぐりきて穹隆に桜桃は墜ちたり

 

真乙女の乳房を口にふくむ時日照雨のごとき悲しみ奔る

 

西方の窓を放てり幾何学を強ひられし初夏の弟

 

いつまでの午睡なるらむ死こそわが母なればその胸に抱かれて

 

わが妻の堕胎告知の光背を飾れり麦の青き穂波は

 

石楠花はほのかに皓し手弱女といふいにしへの羞らひの色

 

六月某日百合ノ花より出火シテ都鄙コトゴトク喪ハレタリ

 

沈黙はむしろ饒舌わが通夜の客ねがはくは私闘におよべ

 

あをぞらを裁ちてつくりし夏衣はや身にそはず齢重ぬる

 

みどり児を蚊帳もて蔽ふその蚊帳をゆめ帷子と思うはざれども

 

夾竹桃きのふ筑紫に火事ありて焼け残りたる花ぞこの花

 

七月の空に銀泥もて描かむ炎のごとき菊の象を

 

夏鴉くちばしに突きくづしたりステインド・グラスのごとき入日を

 

めつむりて吾子の姿を追ひしゆゑ終日を定まらぬ照準

 

錆びしチェ−ンもて薙ぎ払ふ花兆す寸前の曼珠沙華の群を

 

風の秋はや守るべきもの失せて静かに妻に対ふ晩餐

 

ここのみを見つめ給へと言ふ妻のあはれ胸乳を飾る初霜

 

冬雲雀、夏時鳥、秋は父。虚空といへどかく楽しかれ

 

ひさかたの天の奥つ城手をのべて詩魂のごときつかみいださむ

 

祖父の霹靂兄のすすりなきかくて男といへどながらふ

 

海に入る星の叫びをとらへむと網打ち心盲ひたり

 

カ−テンを開くるや秋はわが妻の死亡通知書舞ひ込む気配

 

ますらをのこころは風に光りつつ散り鎮まれる萩の白花

 

わたつみに祷るがごとくまむかへる父さはれその長き睫毛よ

 

人てふ愚存へしむるゆゑよしを天に問ふかに銀桂花咲く

 

兄は禍禍しき傘さして晩秋の駅頭に神神を待ちゐる

 

石榴裂くやたちまち赤色諧謔は榴散弾のごとくたばしる

 

神無月祭礼は近し剃りあとも鋼鉄のごとく匂ふ父かな

 

その淵の名は「歌鎮め」とこしへに紅葉明りに閉されしまま

 

言の葉の鋭き棘に刺さるるは父の赤裸を見たるゆゑ

 

神はその太き腕に女子を抱きけむ鷺のごとき声あげ

 

星さへも犬と呼ばるる屈辱に耐ふ「主ヨイヅクニ遁レ給フヤ」

 

光陰のせせらぐ酒杯かたぶけて今宵知命を越ゆる人あれ

 

雁子産と言ふ閑雅なる風聞にあざむかれつつ街をさすらふ

 

朝な朝なはるか銀河の薄氷を割りては妻の声を洗へり

 

かちわたる銀漢のその薄明り内耳戦きつつも殉ふ

 

冬の花零るあかときを暗緑のうろくづのごと喘ぐ歌人

 

醜貌にふさはざる声「畢レリ」と告げしイエスを笑ふべからず

 

永劫回帰など犬の餌詩歌とて・・・狼火のごとく嘯きて死す

禍  心

兄と弟覇を競ふてふ風聞のごとくに海を蔽ふかがり火

 

野辺の緑に諸鳥も早や凛凛と名告りけむはるかなり朝倉

 

火祭の列を外れし若者か未明清しき声に謡ふは

 

をがたまの若葉に今朝は飯を盛るゆめたはぶれと思はざれど

 

政治すなはち時の狭間にあぎとへる蒼白のうろくづを思へり

 

葱の秀は月におやべりさらさらと紗は万象を蔽はむ

 

音絶えし緑陰にゐて遠つ世の近江の魚をしばし恋ふなり

 

音曲の殊に破調を好めるは心つよきがゆゑにはあらず

 

「政いな凶つ事」子の歌ふ童謡にあをざめし水無月

 

水甕に星をとらへて放たざる子よ彼の星も炎ゆるばかりぞ

 

こころみに引き結びたる松が枝を揺るがせて秋風の狼藉

 

しろがねの星胸板に砕きつつ馳せ参じたり男一人

 

鳥発ちし後の光陰白色に揺らきたりそを誰にか告げむ

 

逆光の鵙に襲はれたり「汝大地ニ父ヲ祀ルベカラズ」

 

こころざし既に真紅の櫨の葉の葉隠れにひとこゑの愛鷹

 

水の色朱に変じつつみなぎらふ飛鳥川そこ越えし言霊

 

淡淡とまむかひいたる胸中の凶深まるごとし

 

炎ゆる氷のごとき男に掬はれし魚 政変は兆しつつあり

 

氷上にひとすぢ赤き雲奔りその後の兄いはば鬱王

 

閑雅なり筑紫に下る船中に偽書萬巻を読み了し弟

 

兄と弟妻を争ふ淡雪といへどうすくれなゐに馨れば

 

はいとうに手をかけにけり春愁と言ふ現身の思ひなかばに

 

飛ぶ百合のごとき矛もて弟はつらぬきにけり兄の眉間を

 

訃報朗らかに至れば祖母の母音の乱れかぎりしられず

 

政変ののちの水無月みひらきて陽に対ひけむ・漁人某

殺意

緑陰を見ぬ世へ帰る乳母車雲母触れ合ふごとく軋みて

 

「国を憂ふ」と書かざりしわが青春の闇に置く虎耳草一輪

 

月明にくろがねの葱爽だてりかかる夜更けぞ汝を抱きしは

 

初夏の水こそ香れ殺意てふ言葉育てて来し男らに

 

今生は日蝕 かかる心もて薙ぎ払ふ朱のダリアなりけり

 

独活の若芽を啖ひつつ憂し肉食の罪さらさらに思はざれども

 

初夏の天に帆を張る一本の欅父とはかくあるべきや

 

憑かれたるもののごとくに香を零らす花樗父樹下にやすらふ

 

海芋の淡緑の包ことごとく育てつつあり苦き言葉を

 

「風に寄する思ひ如何に」と人問はば「炎」と応じ天を焼かむか

 

鬱蒼として謐かなり初夏の男の胸を森と思へば

 

風は今怒りに依りて透きとほるその風をこそ心に恃め

 

東の空は僧衣を広げたるごとしいづれは己が心も

 

眼前に太太と横たはる蛇それより先を見ぬ世と告げて

 

黒シャツの一団真夏街中を駆抜けにけり驟雨のごとく

 

蜻蛉は父を伴ひ来りけり空の青さは此処に極まる

 

半身は酣の秋粉粉の青磁を水の底に見出でて

 

かへらざるいにしへ思へ銀の水ほとばしる雁の空

 

「怒りこそ詩歌」凛たる墨蹟のごと散りまがふ紅葉なりけり

 

ラグビ−の吶喊の声こだませり寒夕焼と言ふ傷口に

 

人は火の器なりけり如月の風を発止と額に受け止め

 

寒すばるわが胸中に七人の敵を映す海ぞありける

 

椿の蕾をあまた抱へ来て未明の海に放つわれかな

 

腸に春の陽あたることあらばわれも眠らむ田螺のごとく

 

なつかしき春の愁ひを封じ込め一つ阿修羅に歯痛を献ず

 

男に母あることのほの暗き華やぎに似て揺るる藻類

 

あいたいと吾に迫り来る黄昏の霊柩車死者数千の声

 

ましぐらに坂駈上る吾子なりし背より陽炎となりけむ

 

ただ一羽海峡を越え来りけむ丹頂よわが高き櫓に

 

夕寒の鼻腔を吾子はくすぐれり一瞬にして春の崩壊

一期不会

夢も見で而立過ぎたり風吹けば水田さばしるさ緑の波

 

不知火の海の微風を享けしかば四肢たちまちに蒼ざめにけり

 

邂逅は遥かなる過去かきつばた繁みとなりし雨の夕暮

 

一期はすなはち不会と緑濃き葉隠の地に妻と存ふ

 

朝焼けに染まりてふるふ鶏卵よ弟ははや農を棄てたり

 

ラジオより楽鳴りいでて黒緑の橘の実も聴き入るごとし

 

「陽光のために昏し」と言ひ放てり君はしんじつわが異邦人

 

胸発ちてそよいづかたへ吹く風ぞ亡ぼされたりわがフウイヌム

 

ぬばたまの夜の向日葵を嘉しつつ「磯部浅一遺書」読みふける

 

何を恐るる君ら男の頭上には炎天といふまなこあるのみ

 

稗に眼を突かれて一日王族の苦患のごとき愉しみにけり

 

「走狗烹らる」さもあらばあれ草莽の繁みおどろに過ぎし八月

 

出穂すそのかたはらを少年は微熱にうるむ面挙げゆく

 

なかぞらにピアノ響けば百日紅白き火花となりて散るかも

 

百日紅言葉識らざるまま老いし父の頭上の純白の燦

 

田園将に荒れなむとする筑紫野に風のごとわれ生き急ぐかな

 

玲瓏たり筑紫野の月友無くば仕うまつらむ「賦」のひとふしを

 

真青なる水底に棲む蟹の名を「夕映蟹」と呼びし人かも

 

一杯の真水を添えしアプサントかのフランソワ・ヴィヨンに贈る

 

行かばブエノスアイレスの西秋冷はわが鬣におよびつつあり

 

青空へひとすぢ奔り去る水のそのかなしみを歌といふべし

 

雲の色赤・茜・朱・くれなゐに滾つを見をり肩車して

 

鈴ふるごとき思ひぞ十月の宛名に記すアルヘンテイ−ナ

 

木賊刈る信濃はいづこ還るべき故国持たざるゆゑに男ぞ

 

空の秋極まりしかばみみうらを星の触れあふ音ぞ過ぎける

 

水田に薄氷結ぶあおの朝夢のごとくに立てり白鷺

 

酢牡蛎落ちゆく咽喉あはれなりいまだ北一輝の記憶断ちがたければ

 

真夜にして胸つき上ぐるもののあり永久に雪ふる星こそ故郷

 

常に二歩吾に先んじて雄鶏のふりむきざまの眼鋭し

 

「一路遂に奔騰せん」と遺書にありその懸隔に降りしきる雪

 

「天頂に届け」と凧に大書せりいざ山上に風たたしめむ

 

あるいは月山よりの帰路半ば我にやどりし鷹かも知れぬ

 

精悍と呼ばれしことも遥かなり写真に笑ふ青年将校

 

髯剃るは禊に似たり恥多きわが慷慨の歌のひとふし

 

武士は木曽冠者にきはまれり今宵水田に立つ大鴉

 

如月の星を満せる砂時計かたへに置きてしばしまどろむ

 

李太白宛に書状を出しけり今宵心を春疾風吹く

 

胸のうちに宙ありて揚雲雀棲み我を誘ふ声を限りに

 

昂然と青き単車に跨りしその真乙女の行方を知らず

 

わが視界及ぶ限りはヒアシンス咲けり岬は海に溶け入る

 

金雀枝の枝振る童子青帝を御して疾風のごとく去りゆく

 

日に三度鏡に対ふわが嬬よ願はくはその淵にとどまれ

 

妻と我吾子を挟みて遠ざかるその子を真秀と名づくるあはれ

 

子に歌を歌ひて妻は眠らしむ「締の帯のただ片結び」

 

滾々と来りまた去る雄物川美しき乱神いましけむ

 

百合花冠受けていざやと歌ひけむ大伴家持こそわが兄

 

三枝の祭と聞かば馳せ参じいざ言問はむ伊須気余理比売

 

瞑ればかすかに見ゆるみづからを虹となし走り去る散水車

 

右翼より吾にさし向かふ翡翠の閃光に似し心と思へ

かつて斯くあらむと希ふことありし松は雄雄しく人を拒めり

 

「孔雀舞」を弾くはサンソン・フランソワ海芋は白き血をしたたらす

 

星は今亡びの岸の夏祭青年団長熟睡深けれ

 

聴覚は悲しきものを時満ちて夜のみづうみに零れる紅葉

 

黒砂糖の苦きおもひはたちまちに薩州藩士西郷隆盛